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大便の貯留としかるべき排便のバランスによって、いたずらに便の失禁を誘発したりすることのないよう自律的にコントロールされているので、直腸の一部を切除した場合、排便の機能に関していろいろな支障を生じる可能性がある。
一週間に二回程度、その容器を逐次交換すれば、排便の機能は一応果たせるというしだいである。
この人工肛門の技術が開発されることによって、直腸がんの治療は、生命の救済というレベルにおいて大きな成果が得られるようになった。
だが、ストーマの保有患者は、主として排世機能のコントロール不良、たとえば大便の失禁同然の状態や、また臭気や排ガスの処理に悩まざれることになる。
当該部の皮層のかぶれといった合併症、あるいは精神的な不適応など、QOLの上で生涯を通した負担を背負っていくことになりかねない。
がんと「共存」するまた成人の握り拳ほどの大きさの骨盤内には、小腸や精巣、前立腺といった泌尿器関連の臓器が密集している。
それぞれの臓器の周囲には血液を供給する血管が走行、また重要な神経も複雑に分布している。
かりに早期がんの段階ならば直腸だけの切除で済むが、がんが直腸の周囲に浸潤、あるいは骨盤内転移と判断される場合、手術に際して患部周辺のリンパ節を広範囲に廓情するのが普通である。
その際、誤って小腸を支配する神経を傷つけると術後に自力での排尿が困難になってしまう場合がある。
また勃起、射精など男性機能にかかわっている神経が切断されるとその面での影響も避けられない。
実際に八○年代以前には手術前の検査の精度が低く、直腸がんの浸潤の範囲、リンパ節転移の判断があやふやで、手術の際にはひたすらリンパ節の清掃を旨とする拡大廓清が入念に行われた。
その結果、進行した直腸がんの手術においてはなんらかの神経障害は避けられないといわれたほどで、多くの患者は術後、大腸、小腸の機能などを合わせて失い、排便、排尿、性機能障害などの後遺症に持続的に悩まされたのである。
その反省の上に立って、リンパ節の廓清をはじめ切除範囲を最小限にとどめる縮小手術が次第に主流になってゆく。
そうした流れの中で排尿や性機能に関係する自律神経の分布・走行が徹底的に研究された結果、日本で確立されたのが「自律神経温存術」である。
いまでは自律神経のどの部分を残せばそれらの機能がどの程度残せるか明確になって、当然、排尿、性機能のすべてを保存しようと思えばおよそ可能である。
このように諸種の機能障害を可能な限り少なくとどめる方法が開発されたことは、術後のQOLを視野に入れると画期的な成果というべきである。
目下は、再発のないような患部の切除と各種の機能の温存のバランスをとること、すなわちがんの進行度や位置によっていろいろな方法を駆使して根治を目指そうとする医師と、性機能などの温存を希望する患者の意見がすり合わせられて、切除範囲をぎりぎりの限界に絞ることが重視されるようになっている。
いきおい生命の維持はもちろんのこと、加えて前述の人工肛門も回避できるような手術方法はないだろうかというのが患者側の強い願いということになる。
その点で嘗ては一五センチの直腸のどの部位にがんがあっても人工肛門は必至であったが、現在、直腸がんの手術の七〜八割は人工肛門を回避できるまでになっている。
直腸がんの病変は下部の肛門の方に拡がりにくいということがわかってきて、直腸の上部に位置するがんなら人工肛門を設置しなくても済むようになったからである。
とはいえ、がんのできた位置が肛門に近いほど人工肛門を設置する率は高く、少なくとも肛門と直腸の境界線(歯状線という)から二センチ以上離れていない場合、人工肛門は避けられないということになる。
直腸がんを検診する際、肛門から指を入れて病変を探る「指診」という方法が行われるが、その「指診」でやっと指が届くぐらいの位置なら人工肛門は完全に免れると考えられる。
彼女は渋る主治医に頼み込んできわどいリスクを覚悟の上で、再発の危険をあえて冒しても人工肛門を回避するような手術法を選択して、その後も健在なのはご同慶の至りである。
がんの手術というのは、根治という点に固執して範囲を拡大すれば術後に機能障害の頻度が高くなり、他方、術後の機能の維持を優先させようとすればがんの取り残しが起こって根治の率が低くなる、というジレンマに絶えず直面しているということになる。
最近、患者個別の希望に添った「オーダーメイド治療」という意味合いは強まっているが、最終的に医師は再発のリスクも正確に告げて、患者の選択と決断を促すというのが大きな流れである。
したがって術後の再発の責任は患者自身が負うことになり、その意味でやはり厳しい「選択と決断」が求められるということである。
三男の尊厳、女の尊厳前立腺がんの場合第四章で述べたように私のメスへの信頼はゆるぎないものだが、自らの手術に関しては絶対的な予後ということを超えて、悩ましい問題もいくつかあった。
男性機能の喪失いかんは前立腺がんの手術における大きなテーマではあっても、私はもはやそのことは達観したつもりだった。
だが、同年代のY教授が真剣に助言してくれる点で、手術の実施場所の選択と合わせて再考の余地ありと思うようになった。
こうした場合、再発の可能性を少なくするため、がんの取り残しを警戒してできるだけ広く切除すれば骨盤(勃起)神経は残せない、逆に前立腺を包んでいる被膜に接して走る骨盤神経を温存、勃起能(性機能)を維持しようとすれば、ぎりぎりのところまで切除範囲を狭く絞らなければならない。
まさに予後とQOLのいずれに重きを置く術式を選ぶかが一つの焦点になった。
章がんと「共存」する期せずして患者のKさんのことを思い出した。
彼は六六歳の時、PSA高値で超音波検査でも前立腺がんの疑い濃厚として某病院で手術を勧められたが、性機能が失われるのは断固拒否、他になにかよい方法がないのかと私のところに相談にやってきた。
彼の持参した検査伝票に記されたPSAは体内のいろいろなところに前立腺がんの転移を推測させるような異常な高値であった。
驚いた私はやはり手術すべしという常識を懸命に説いた。
正直に言って地元で名高い会社を経営し、現実に数百人の社員を抱えた企業のトップとして分別がなさ過ぎると言いたい気分であった。
Kさんは温和に笑みすら浮かべながら、「年甲斐もなく思われるかも知れませんが、現在の私にとって男性としての機能を失うのはすべてを失うに等しい」とまで言い切るのである。
仕方なく妥協案として医師の私が付き添って当該の病院へ再度出かけて、泌尿器科のM部長といろいろ話し合った。
性機能の維持が完全に保障されない限り手術に応じない、というKさんの意思は変わらなかった。
途中、彼がトイレに立ったときに、「聞き漏らしましたが、Kさんは米国の生活が長かったのですかね」とM部長が私に訊ねた。
「さあ」私の知る範囲で彼は米国とは深いつながりを持たないはずである。
M部長が米国を話題にした真意はある程度推察できた。
日本に比して米国では前立腺がんの放射線治療が好んで行われる。
保険制度の相異で手術のような高額の治療が敬遠されることに加えて、年齢に関係なく性機能の維持が最優先の課題とされる社会である。
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